2014年12月27日 | WEB NOVEL

ウォーター・ワークス


「ああ、それから……」
 短い廊下を玄関へと向かいながら、不動産屋が瑣末な注意事項の付け足しめかして告げた言葉は、あまりにも完璧な何気なさにコーティングされていて、私は最初それを右から左へと聞き流してしまった。
「浴室を使うときは、灯りを消さないでくださいね」
「ええ、はい」
 引き渡された二本の鍵の片方を安物のキーリングから外そうと悪戦苦闘していた私は、いいかげんな生返事をもごもご口にした。そしてようやく、知恵の輪かと思うほど硬いリングからぴきんと音をさせて鍵を分離させ、それらを両手に握り締めたまま顔を上げた。
 不動産屋は既にたたきに降り、そそくさと革靴に足を滑り込ませてようとしていた。五十がらみの、いかにも人のよさそうなごま塩頭の小父さんがドアノブに手をかけ、それを半回転させたところで、私はようやく先ほどの注意の奇妙さを意識した。
 お風呂に入るとき電気を消すな?
 当たり前ではないか。そんなことをしたら、シャンプーとリンスの区別さえつかない。それとも、私が知らないだけで、昨今の一人暮らしの女性のあいだでは暗闇で入浴するのが流行っているのだろうか。
 首を傾げながら、私は不動産屋の丸々とした背中に向かって訊き返した。
「あの、すいません、今なんて仰いました?」
 妙なことに、不動産屋は開きかけたドアノブを握ったまま、少しだけ緊張したように見えた。しかし、こちらを振り向いた顔は、それまでの如才ない笑顔と何ら変わるところは無かった。
「いえね、大したことじゃないんですがね」
 スーツのポケットから出したパイル地のハンカチでしきりに広々とした額から頭頂部を拭いながら、不動産屋は快活に言った。
「ほら、ここのお風呂、ユニットバスじゃないでしょ。壁とか床とか、タイルなんだよね」
「ええ」
 築七年とそこそこ新しく、一DKの単身用の間取りにしては、このマンションは今時珍しくタイル張りの浴室にステンレスのバスタブを備えていた。私はどうにもあの、トイレと一体化したユニットバスというやつが苦手で、それが決め手になってこの物件を契約したようなものだ。しかし、それと風呂場の灯りとどんな関係があるのだろう。
 いぶかしむ私に、わざとらしいほどの笑顔を向けながら、不動産屋は説明を続けた。
「タイルって、以外と滑りやすいんですよ。それに硬いし。もし足を滑らせて壁で頭を打ったりしたら危ないでしょ、ね。あたしなんか、前に温泉いったとき落ちてる石鹸に気付かないで踏んじゃってね、腰を打って酷い目に遭いましたよ。そこは凄く薄暗い風呂でねえ、あれは参ったなァ。だからね、風呂場は絶対に明るくしといてくださいと、そういう話です、それだけ」
 早口でそうまくし立てられ、私は勢いに押されるように頷いた。
「は、はぁ」
「それじゃ、あたしはこれで。荷物の搬入は明後日でしたよね、もし何かありましたら、店のほうまで電話くだされば、すぐ来ますんで」

 その後しばらくは、引越しと荷物の整理に忙殺され、不動産屋の奇妙な注意事項を思い出す余裕もなかった。
 入社二年目の新人に、引っ越すから有給をくださいと言えるような度胸があるはずもなく、ダンボールが積みあがった新居に八時ごろ帰宅しては少しずつ荷をほどく生活が続いた。
 同期入社で、ビルの違うフロアで働いている一応の恋人であるところの多田朝夫は、私のげっそりとした顔を見るたびに手伝うよと言ってくれたが、自分でもどこに何が入っているかわからない荷物を彼に開けさせるわけにもいかない。
 ほぼ一週間をかけて最後のダンボールが壁際から消滅する頃には、実家から必要なものだけを持って出てきた六年前の引越しと、立つ鳥跡を濁さず部屋を綺麗さっぱり空っぽにしなければならなかった今回の引越しの違いを私はたっぷりと実感させられていた。
 不動産屋の言葉をふと思い出したのは、木曜日の昼休み、会社近くのレストランで朝夫とコーヒーを飲んでいたときだった。
「そりゃあ絶対あれだよ、あれ」
 何気なく、そういえばと例のおかしな注意事項を話題に出した私の向かいで、朝夫がフレームレスの眼鏡を押し上げながらやけに楽しそうに言った。
「へ? あれってどれ?」
「だからさ……アレだよ。出るんだよ」
「何が?」
「これ」
 両手を胸の前で垂らしてみせた朝夫の仕草を見て、私はようやく彼の言わんとするところを理解し、そして大いに呆れた。
「あのねえ……あんた今年で何歳になるのよ。そんなもん出るわけないじゃないの」
「だってさぁ、おかしいじゃん、絶対」
 子供のように目をきらきらさせながら、朝夫は言い募った。黙っていれば理知的でクールな風貌なのだが、このように少々稚気の抜けないところが朝夫にはある。私を口説くときにも小学生のようにかちかちに緊張していて、なんだか情にほだされてついOKしてしまったのだ、などとは勿論彼には言えないが。
 私の内心など気にするふうもなく、朝夫は自説の開陳を続けた。
「滑ったら危ないのなんて、風呂がタイル張りだろうとプラスチックだろうと一緒だよ。だいたい、君もさっき言ったように、電気消して風呂に入る人なんていないよ。それを殊更注意するからには、やっぱ何かあるんだよ、普通じゃないことが」
「……でも、じゃあ、なんでお風呂だけなのよ? 浴室限定のオバケなんて聞いたことないわよ」
「そうかなぁ。僕、前っから思ってたんだけどさ……」
 そこで思わせぶりに言葉を切り、じっと私を見て、朝夫はやや声をひそめて言った。
「人間が一番無防備になる瞬間て、洗った頭をシャワーで流してるときじゃないかな」
「ええ?」
 予想外の言葉に、私は唖然として、持ち上げようとしていたコーヒーカップを空中で停止させた。
「そんなことないでしょ? もっと他にもいろいろあるでしょう……テレビに夢中になってるときとか……そうよ、熟睡してるときとかさ」
「いやあ、そうでもないって。人間の五感で考えてみようよ。たとえヘッドホンで映画見てるときでも、周りで何か動いたり、肩を叩かれたり、妙な匂いがしたりすれば気付くよね」
「気付く……かなあ」
 首を捻りながら、私は先日、まさにそのシチュエーションで煮込み中のカレーを少し焦がしてしまったことを思い出していた。あの時は、怪しい匂いに気付いて慌ててキッチンへ駆け込んだのだが、幸い傷は浅く、カレーの九割を救出することができた。その意味では、たしかに気付くべきものには気付いた、と言えなくもない。
 黙り込んだ私に頷きかけてから、やけに楽しそうに、朝夫は自説を展開する。
「じゃあ次に寝てるときだけど、睡眠中の人間って、無意識のようでいて案外感覚までは閉ざされてないと思うんだ。逆に言えば、寝てる人を起こさないように周りで何かするのは難しいってことだよ。君なんか、僕が隣の部屋でパソコン使ってるだけで起きてきて五月蝿いって文句言うじゃない」
「ちょっと、やめてよこんなとこで。あれは、あんたのキーボードが喧しすぎるのよ」
 思わず声をひそめ抗弁するが、しかし確かに私は眠りが浅いほうで、ちょっとした音や光ですぐに目を醒ましてしまう。引越しを敢行したのは、以前のアパートが幹線道路に近く、深夜に轟く改造車の爆音に閉口したからということもある。
「泥酔して眠りこけてるとか、薬を使ってるとかでもない限り、例え寝てても人はそこまで無防備にはならないってことさ」
 コーヒーを一口含み、芝居がかった間を取ってから、しかしだよ、と朝夫は続けた。
「洗った頭をシャワーで流してるとき、人の感覚がどれほど阻害されているか、考えたことある? もちろん視覚はアウトだよね、ぎゅっと目を瞑ってるわけだし。聴覚も、頭をばしゃばしゃ水が叩いて、それ以外の音なんか聞こえない。嗅覚は、シャンプーの強烈な匂いで役に立たないだろうな。触覚だって、全身を流れる水の感覚でかなり麻痺するはずだ。味覚……はこの場合関係ないから除外するとして」
「うーん……」
 どうにも怪しい理屈だが、口惜しいことに即座に反論することができない。朝夫はこの手のペダンティックな理論の捏ね回しが大好きな奴なので、私は言い負かされてばかりなのだ。
 ちらりと腕時計を見た朝夫は、議論のまとめとばかりに、涼しい顔で付け加えた。
「つまるところ、君が風呂場で頭をじゃかじゃか流してるとき、後ろに半グサレのゾンビかなんかが立っててそおっと背筋を撫でても、君は気付けない公算が大ってことだよ。もし僕がその手の人間を襲う系の化け物なら、住み着く場所は絶対風呂場だね。獲物は素っ裸だし、洗いたてだし、数十秒にせよ完璧に無防備だしさ。それに――直結してるしね」
「は? どこに?」
「下水さ。地下の下水溝。都市に残された、最後にして最大の闇の領域」
 にやっと笑い、二本の指で伝票を摘み取ると、朝夫は軽い足取りでレジへと歩いていった。

「あんにゃろうめ……」
 その晩、一日の労働を終えて帰宅した私は、脱衣所で腕組みして短く罵り声を上げた。対象は無論朝夫である。
 あんなことを言われたら、私のような霊感ゼロ人間でも、多少は気味悪くなって当たり前ではないか。ようやく荷物も片付いたことだし、今夜は朝夫のマンションに泊まろうかと思っていたら、こともあろうに奴は残業で終電まで帰れないとメールを寄越したのだ。やむを得ない事情ではあるが、それにしたって無責任以外のなにものでもない。
 問題の風呂場には、換えたばかりの電球から眩いほどの光が放散されている。タイルやバスタブは隅々まで清潔に輝き、朝夫の言うような半グサレ系が隠れる暗がりなど一つたりともない。
「……あーもう、馬鹿馬鹿しい」
 私はふんっと鼻息を鳴らすと、荒々しく部屋着のスウェットを脱ぎ捨て、洗濯機に叩き込んだ。そして少し考え、脱衣所の灯りをつけたまま、風呂場の電気を消した。
 元来、私は、難事は一等先に片付けたい性格の人間である。子供の頃は、給食にキュウリが出ると真っ先にそれだけを食べ、予防注射の列は先頭に並んだものだ。今回の一件は、要は不動産屋の奇妙な注意と、朝夫の風呂場に出る説が無関係だと証明されてしまえばいいわけで、実際に暗がりで入浴してみればすむ話だ。簡単なことではないか。
 ――とは、言え。
 さすがに真っ暗闇にするのは躊躇われた。手探りで石鹸だのシャンプーを捜すはめになるし、本当に足を滑らせて怪我でもしたら笑い話にもならない。理由はそれだけ、とは断言できないのも事実ではあるが。
 脱衣所の灯りは頼りない白熱球ひとつだけなので、浴室に入り擦硝子のドアを閉めると、内部は予想よりもかなり薄暗く私は思わずごくりと唾を飲んだ。
「……馬鹿馬鹿しいったら」
 もう一度繰り返し、どすんとバススツールにお尻を下ろす。
 シャワーヘッドを握ってコックを開け、勢いよく噴き出した水が適温になるのを待ちながら、私は、自分の言葉とは裏腹な緊張がうなじのあたりを這いまわるのを意識した。
 暗い風呂場、というのは確かに、人間の原始的感覚に訴えるなにものかを含んでいるらしい。それは単に、全裸でいることの無防備さのみから来るのではない気がする。この、隈なく湿り、濡れた狭い空間は、その水気を通してどこかに繋がっているのだ――と否応なく納得させられそうになる、言うなれば、ある種の異界感……。
 ぶるる、と頭を振ってから、私は充分に暖かくなったお湯を自分に浴びせ掛けた。高めの四十六度に設定してある飛沫が、肌を這っていた寒気をあっという間に洗い流していく。
 まったく、私としたことが、朝夫にあれきし脅かされたくらいでその気になってしまうとは。こんな大都会の真ん中の、電子制御された浴室にオバケが出るなら、子供の頃よく遊びに行ったお祖父ちゃんの家の、ぬるついた全木製の常時薄暗い風呂場は妖怪の群れが踊りまわっていなくてはおかしい。
 祖父母にもずいぶんと顔を見せていない。そのうち朝夫に車を出してもらって、一度遊びにいこうか。あのお風呂に、灯り無しで入れるかどうか、奴にも試させてやったらさぞかし面白かろう……。
 頭の天辺からお湯を浴びながら、その様子を想像して、私が思わず微笑んだ、その時だった。
 こぽり。
 という、シャワーの騒音を通過した小さな水音を、私の左の鼓膜がかろうじて捉えた。
 反射的に右手を伸ばし、コックを閉める。シャワーノズルを両手でしっかりと抱え、身体を硬くした私の耳に、もう一度――。
 こぽっ、という音が、確かに響いた。
 左側、バスタブのほうからだ。見開いた目を、おそるおそるそちらに向ける。
 輝くステンレス製の浴槽は、上部をプラスチックの蓋で覆われたまま、何の異常もなく鎮座していた。ただし、外側は、だ。さっき聞こえた音は、間違いなくこの内部、真新しい湯がなみなみと湛えられているはずの蓋の下から聞こえてきたようだった。
 子供のように目を丸くしたまま、私は十秒ほどもじっと凍り付いていた。しかし、もう、先刻の音が繰り返されることはなかった。
「…………」
 口許に浮かんできたのは、今度は大きな苦笑いだった。まったくもって幼い子供のようだとしか言えない。お湯で満タンのバスタブの中で水の音がしたからなんだというのだ。
 理性ではそう言い聞かせ、しかし左手は限界まできつくシャワーノズルを握ったまま、私は右手を浴槽の蓋へと伸ばした。
 一瞬の躊躇のあと、勢いよくばっと捲り上げる。
 内部には――当然のように、何もなかった。脱衣所から漏れてくる薄い明かりの下で、透明な湯がゆるやかに揺れているだけだ。
 ふう、と息を吐き出し、左手の力を抜きかけた私は、視界の中央に、ひとつの泡がゆらゆらと登ってくるのに気付いた。それは水面に達したあと、わずかな時間抵抗し、こぽん、とあの音を残してはじけ、消えた。
「……?」
 首を傾げ、浴槽の底を覗き込む。
 泡の源はすぐにわかった。黒いゴム製の栓が、排水口からわずかにズレて持ち上がっているのだ。
「なんだ……」
 呟きかけてから、待てよ、と思う。このお湯を張ったのは、帰宅して『ふろ自動』ボタンを押したときだからもう三、四十分も前だ。最初から栓が抜けかけていたのなら、湯が溜まらないのだから十分もしないうちに警告アラームが鳴っただろうし、それ以降ならば上から水圧がかかっているのだから、栓が勝手にこんな状態になることはないはずなのだ。
 どういうことだろう、と訝しんだ、その直後、不思議なことが起こった。
 首をかしげる私の、視線の先ほんの数十センチにあるその黒い栓が――。
 ことこと、と揺れ、勝手にあるべき位置に収まったのだ。
 栓が完全に閉まるその寸前、またしても泡がひとつ排水口のわずかな隙間から発生し、ゆらりゆらりと長い時間をかけて私の眼前に盛り上がって、こぽんと割れた。
「…………え?」
 今度ばかりは、私も、今見たものを合理的に説明することができなかった。



 翌、金曜日。
 私は少々憤然としながら、猛然と午前の仕事を片付けつづけていた。
 昨晩の奇妙な出来事を、朝目覚めるや早速朝夫にメールで伝えておいたのだ。ところが、通勤電車に揺られているとき返ってきた奴の回答は、『共用排水溝でガスでも発生したんだよ。キミも意外に怖がりだなあ』などという代物だったのだ。前日、散々暗い風呂場に気をつけろだの都市の最後の闇だのとひとを脅かしておいて、その言い草はないではないか。
 確かに、ガスの圧力で栓が持ち上がり、また戻ったというのが最も合理的な解釈だろう。
 しかし、私の目には、あの栓の奇妙な動きがいまも焼きついている。あれが自然現象だ、などとは、私にはどうしても思えない。有り得ないことだと解ってはいるが、しかし、あの時何者かが、細い排水パイプの向こうから、指先で栓をつまんで元に戻したのだ、と言われるほうがよほどしっくりくるような、そんな動き方だったのだ。
 かくなる上は、この週末、どうあろうと朝夫を新居に招待し、手料理と取っておきのワインを振舞ったあと、にこやかに風呂を勧め、奴の入浴中に電気を消してやらねば気がすまない。しかも今度は、脱衣所の豆電球も容赦なく切るぞ。
 というような怒りと復讐の念をエネルギー源に、普段の三倍のスピードで今日一杯が締め切りだった企画書をまとめ上げた私は、くらえ、とばかりに印刷ボタンをクリックした。
 いつもなら、デスクの島端に据えられたレーザープリンターが即座にういーんじゃかじゃかとプリントアウトを吐き出すのだが、私の暗黒面の力に畏れをなしたのか、返ってきたのはぴーという情けないビープ音だった。印刷用紙が切れているのだ。
 少数精鋭の我が企画二課では、プリンタの用紙トナー切れに気付いたものが補充するという掟がある。ため息をついて立ち上がり、プリンタの設置してあるラックの下段を覗き込んだが、なんたることか用紙のストックすら切らしていた。向かいのデスクの同僚が、にやにや笑いとともに放ってきた行ってらっしゃいの声に背を押され、私はしぶしぶ階上の備品倉庫へと向かった。
 エレベーターを待つのも面倒だったので、階段を小走りに駆け上げる。
 資料室と備品倉庫とろくに使われない会議室だけが並ぶフロアは、しんと静まり返っていた。おもわず足音を潜めながら、倉庫のドアをこれも静かにスライドさせる。
 広告全般の企画制作を業とする我が社の備品倉庫は、広大な空間を多種多様の資材、製作物が埋めつくしていて、その谷間にタレントの等身大ポップがぬっと立っていたりするものだから余り気色のいい場所とは言えない。つい爪先歩きになりつつ、天井まであるスチールラックの渓谷をくぐってPPC用紙の積んである場所を目指す。
 微妙に迷いつつも、ようやく目的のものを発見した私は、A4用紙の束を三つばかり抱え上げようと腰を落とした。
 その時、耳に、かすかな人の声が届いてきて、思わずびくりと肩を震わせた。倉庫にほかに人がいたとはまったく気付いていなかったのだ。
「だから……あれは、そういう意味じゃないと、何度も言ったじゃないですか」
 低く抑制された男の声に、こちらは少々昂ぶった女性の声が続く。
「そういう意味以外に、どう受け取れるっていうのよ」
 すわ、これは恐らく愁嘆場とかその類いのものである。そんな所に闖入してしまっては気まずいでは済まない。
 幸い、彼はラックの列二つ以上離れた場所にいるようだった。発見される前に持つ物を持って退散しようと腕を伸ばした私は、次の声を聞いて、違う意味でもう一度凍りついた。
「拡大解釈が過ぎるというものですよ、主任。ともかく……僕に、その気はないんです」
 なぬ、とアゴを落とす。
 これは朝夫の声だ。
 てことは何? 私は二股をかけられていたの? と一瞬砂のように乾燥しかけたあと、どうもそういうわけではなさそうだと危く気付いた。朝夫の声はあくまで冷静なのに対して、女性のほうだけがひたすら感情的だからだ。
「多田君、あたしがこんなに傷ついているのに、その上そんな言い方酷いと思わないの!?」
「主任、声が大きいです」
「誰も聞いちゃいないわよ! あなた半年前の打ち上げの席で、あたしの目を見て、確かに言ったじゃない。僕が好きな女性は、仕事に積極的で、きびきびした、どっちかと言えばドライな人ですね、って。それ、どう考えてもあたしのことじゃないの! 女にあんな事言うのはね、口説いてるのと一緒なのよ。一度口説いたからには、きっちり責任を取りなさいよ!」
 半年前、というと、朝夫が私に告白する寸前の微妙な関係だった時期だ。つまり、朝夫が口にした好みの女性像は、これは自惚れでは無く私のことだと推測してよいのではないか。
 なんだか、大事な物を掻っ攫われた気分に陥って、私はこの際出ていってやろうか、と一瞬思った。
 その衝動をすんでのところで抑えたのは、朝夫が相手の女性を主任と呼んだのを聞いたからだった。平社員のひとつ上のポストではあるが、入社後二年も経っていない朝夫からすれば間違いなく上司だ。ここで私が乱入して、小火にガソリンをぶち撒くような真似をすれば、私はともかく朝夫が今以上に困った立場に追い込まれかねない。
 というぎりぎりの理性に、腕に抱いたPPC用紙三束の重みをプラスしてどうにか憤懣を押さえつけながら、私は二人の会話の盗み聞きを――甚だ情けない気分ではあったが――続けた。
 その後数分間、感情のままに打ち出される女性主任の言葉を、朝夫が懸命に逸らし続けるやり取りが続いた。いくつかの断片的情報から察するに、朝夫の直属の主任であるところの彼女は、問題の打ち上げで朝夫から遠まわしに口説かれたと判断し、公私共に目をかけつつ更なるモーションを待っていたのに、とうの朝夫があっさり他の部署の小娘と付き合いはじめてしまったことに激昂しているという訳らしい。
 そんなことを言われても、と私は大いに叫びたかったし、それは朝夫も同じだろう。私を口説いたときのぎこちなさからして、このような修羅場は彼の最も苦手とするシチュエーションだろうし、それが相手の勘違いから発生したものであるなら尚更だ。
 そういう意味では、朝夫は思わず私が感心するほどの冷静さと誠実さでもって相手の説得を続けていた。しかしながら、その態度が主任の昂ぶりを加速させているのもまた事実のようであった。
 やがて、妙に低く潰れた声で、女性主任が言った。
「……半年よ。半年も、あたしは多田君に良くしてあげたのに、それなのに、あたしの気持ちを弄んで捨てるっていうのね。わかってるの多田君? あたしはね、多田君の上司なのよ。多田君の勤務評定には、あたしの意見だって」
「いけません主任」
 朝夫が、いかにも疲弊しきった声で、しかし毅然と言葉を挟んだ。
「それ以上はいけません。その先を仰られたら、僕は課長に、主任のパワーハラスメントを訴えなくてはならなくなります」
「パ……パワ……」
 主任の、息を吸いながらの裏返った声が発せられ、続けて、
「ひどいわ。ひどい子ね。あたしを脅すなんて。こんなに尽くしてきたのに。あの女ね。あの小娘があなたを唆してそんなことを言わせているのね」
「違いますよ、彼女は関係ない」
「わかったわ……そうなのね……」
 その先はもう聞き取れなかった。ぶつぶつと奇妙な念仏めいた声が、固いヒールの音とともに移動を始め、私は息を詰めて等身大ポップの後ろに身体を押し込んだ。
 ポップの陰からそっと覗いた視線の先で、背が低くちょっと小太りの人影が、通路をすうっと横切るのが見えた。ドアが乱暴にスライドする音が二度続き、そして資材倉庫に沈黙が戻った。
 私がふうううと長い息を吐き出すのと同時に、ラック二列むこうで、朝夫も長々と疲れきったため息を漏らすのが聞こえた。私は用紙束を抱えたまま立ち上がり、通路をコの字に移動して、ダンボールに腰掛けている朝夫の前に立った。
 さっと顔を上げた朝夫の顔には、純粋な驚きだけが浮かんでいて、そこに、やべえしまったといった類いの後ろめたさが無かったことに私は少々ほっとした。
 驚き顔を、かすかな苦さの混じった微笑に変えて、朝夫が言った。
「……聞いてたの」
 私は頷き、自分に可能なかぎりの優しい笑みを作りながら答えた。
「聞いてた。そして事情はほぼ正確に把握したと思うので、説明しなくていいよ。よくがんばったね、お疲れ様」
「君の洞察力に感謝するよ。じゃあ説明抜きでお願いするけど……ちょっと回復させて。ほんとに疲れた、もうくたくただよ」
 私は、喉のおくから小さな笑いを漏らすと、いいわよ、と用紙の束を傍らに置いた。朝夫の、少々髪が乱れた頭を、そっと両手で胸に抱く。
 ぐったりと力の抜けた朝夫の頭を、いい子いい子と一分ほど撫でていると、やがてぽつりと呟く声がした。
「君に黙ってたのを謝るよ。実のところ、ここ一、二ヶ月くらいほんとに困ってたんだ。あの人の……なんていうか、僕へのえこ贔屓が課内でもちょっと噂になっちゃってさ。楽な現場ばっかり回したり、立て続けに直帰させたり……そろそろ何とかしなきゃ、って思ってはいたから、さっきのアレは、偶発的だったけど結果的にはよかったと思う。これで主任も解ってくれただろう」
「……そうだね、あそこまできっぱり言われれば、ね」
 同意しながらも、私は、胸中に少しばかりの危惧が広がるのを自覚していた。あの手のメンタリティの持ち主を、理性的な言葉によって説得するのは至難の技ではないかという気がするのだ。
 とはいえ、ここは中学校の教室ではない。彼女にも上司は居り、また生活のために仕事は続けていかなくてはならないはずで、そのへんのバランス取り、ぶっちゃければ損得勘定はいくらなんでもできるだろう。部下の新人への一時的執着と、自分の社会的地位の安定とでは、当然後者のほうが重いというものだ。
 常識的な価値観に立脚すれば、という話ではあるが。
 などという、いささか無味乾燥な思考を彷徨わせつつ私は朝夫の頭をなでなでしていたのだが、それでも彼の精神力回復には何がしかの効果があったらしく、やがてありがとう、という声とともにひょろりとした体が立ち上がった。
 そうなれば、私と朝夫では十センチ少々の身長差がある。今度は逆に私を両腕で軽く抱き、朝夫は心地よい低音で囁いた。
「僕は、君と付き合えてほんとうに幸運だと思ってるよ。君ほど、一緒にいて安らげる……それでいて刺激的な人はほかにいない。たぶん、君の中にはすごく貴重な回路があるんだろうね。白黒だけの現実を、とても素敵な色に変えられる回路が……」
 その言葉には、最初の告白のようにいかにもあれこれ添削推敲しましたというぎこちなさなんてかけらもなく、朝夫の深い感情が素直に零れ出てきたものだと思えて、私はつい赤面した。
「い、いや……そんな、そこまで大したモノじゃあ……」
 謙遜しながらも、やはり嬉しさは隠せず、私も朝夫の背中にまわした腕にぎゅっと力を込めると、右頬を固い胸に押し付けた。
 そのまま、しばし陽だまりに微睡むような幸福感とともに瞼を閉じ、数秒後、囁きながら顔を上げようとした。
「……私もね、朝夫と出会えて……」
 その先を言おうとした舌が、喉の奥にひっかかり、私は呼吸ができなくなった。しかしそれを意識することもなかった。びくり、と肩から背中にかけてが激しく震える。
 左側のラックに積まれた雑多なファイル類、その隙間から覗く奥のラック列の、さらにいくつかの隙間を針穴のように通したごく小さな空間に――。
 人間の眼があった。ような気がした。
 え、と思い、何度か瞬きし、見開いた目から視線を集中させたときには、そこにはもう何もなかった。しかし、私の網膜には確かに、ぐるりと真円近くに見開かれた白い眼球と、網目のように走る赤い血管、そして比率が奇妙に小さい、黒い穴のような瞳が焼きついていた。
「……どうしたの?」
 いぶかしむ朝夫の問いに、私は答えようとしたが、強張った舌が命令に抗った。
「う……ううん、なんでもない」
 ようやく絞り出した私の声は、自分でも驚くほど震え、掠れていた。

 当初の予定どおり――風呂場を暗くしてやろうという復讐の念はすでに消え去っていたが――明日からの週末に朝夫を自宅に招く約束をし、資材倉庫のあるフロアのエレベータ前で別れて、私は部署に戻った。
 遅かったね、という同僚に、なかなか見つからなくてと言い訳しながら用紙を補充し、企画書を月曜の会議用に十数部プリントする。うち一部を課長に提出し、さらにプレゼン用のグラフ等をまとめ上げたときには、時刻はすでに夜九時を回っていた。
 慣れ親しんだソフトでの作業に、妙に手間取ってしまったのは、やはりあの奇怪な眼球が気になってしまったからだというのは否定できない。
 何かの見間違いだろう、と理性では思う。しかし、もしあれが、昨夜自宅の風呂場で体験した怪現象と関連したものだったとしたら……? 私は自分を合理主義者だと信じているが、それでも、脳裡に『憑依』だの『生霊』だのといった安っぽいオカルト単語がちらつくのを止めることはできなかった。もとより、フィクションとしてならば! ではあるが、ホラー小説や映画の類いは大好きなのだ。
 好きなればこそ、その手の話は現実には存在しないと確信していた私の信条を多少なりともぐらつかせるほどに、昨夜の暗い風呂場のえもいわれぬ雰囲気、そしてあの栓から立ち上った泡にはある種の説得力があったと言えよう。
 こんな思考に捕われてしまうというのは、やはり引越しの疲れと環境の変化、そして例の、倉庫で遭遇してしまった一幕が私をそれなりに動揺させているということだろうか。
 などとぼんやり考えつつ、私は会社の入ったビルを出て、そして顔をしかめた。頬に細かい水気を感じたからだ。
 見上げれば、都心の消えない光を受けた夜空に濃い灰色の雲が厚くうねっている。朝にネットでチェックした天気予報では、明日まで降らないことになっていたのに、どうやら天上におわす誰かが予定を前倒したらしい。ご丁寧に、遠く西の空を糸のように走る紫雷までも見て取れる。街の喧騒に重なって届く低い轟きに背を押されるように、私は地下鉄の入り口へと急いだ。
 約三十分の移動を経てふたたび地上に戻ったときには、すでに雨粒が激しく駅前のロータリーを叩いていて、思わずため息をつく。バッグの中の折りたたみ傘を探るあいだにも、空が二度、三度と白く光り、直後に靴底から震動が来るほどの雷鳴が響き渡る。
 期待せずにタクシー乗り場のほうをうかがったが、当然ながら長蛇の列ができていた。マンションまで歩けば十分足らずだし、私は覚悟を決めて深夜の驟雨に踏み出した。
 傘の柄を握る両手に重い水圧を感じながら、小走りに緩い坂を登る。歩道の端では、せまい溝をちょっとした小川のように流れる雨水が、ところどころの排水溝に賑やかな音を立てて吸い込まれていく。
 都市の汚濁を洗い流し、そして地下へと消えていく水。
 その行き着く先を想像しながら足を動かしつづけ、自宅マンションのエントランスに駆け込んだ私は、やや上がってしまった息をはあっと長く吐き出した。傘の水を切り、オートロックを開けてエレベーターホールへ。たっぷりと水を吸い込んでしまったパンプスの不快な感触をこらえながら四階に上り、しんと静まり返った共用廊下を、ようやく見慣れてきた自宅ドア前まで歩く。
 ああ、いますぐお風呂に入りたい。怪現象のことはとりあえず棚上げして、兎にも角にもたっぷりとしたお湯の中で手足を伸ばしたい。
 心中でそう喚きながら、バッグからキーを取り出し、鍵穴に差し込んで、かたんと半回転させた、その直後――。
 首がもげたかというほどの衝撃が後頭部を襲った。
 まずドアに額を激しく打ち付けてから、膝がくだけるように後ろに倒れた私は、逆向きになった視界いっぱいを占める人影に目を見張った。
 マンション備え付けの消火器を、両手で頭上に高々と掲げたその姿は、間違いなく、昼間に会社の資材倉庫で一瞬見かけたあの女性主任のものだった。
 近づいてくる床面の硬さを感じることなく、私の意識は暗黒に包まれた。



 かちかち、かち。かちかちかちかち。
 また朝夫があの喧しいキーボードを叩いている。
 起き上がり、隣の部屋にいこうとするが、手足の動きがやけに鈍い。
 見下ろすと、いつの間にか、寝室は胸の高さまで真っ黒い水に満たされている。
 水は床の中央に向かって渦を巻きながら吸い込まれていて、栓をしなきゃ、と私は思う。息を溜めてから水に顔をつけ、排水口めざして潜っていく。水の勢いに乗って深く、深く、何メートルも潜ると、ようやくフローリングの床にぽっかりと開いた黒い穴が見えてくる。
 あそこ、嫌だ。私はそう思い、栓をするのを諦めて浮かび上がろうとする。しかし、水の流れがどんどん強まって、私は否応なく穴へと吸い寄せられていく。
 朝夫、助けて。
 叫ぼうとするが、口にも肺にも黒い水がごぼごぼと入ってきて声が出ない。朝夫は気付かずにキーボードを叩きつづけている。
 かちかちかち。

 突然、杭を打ち込まれるような頭の痛みを感じて、私は目を開けた。
 白い光に反応したかのように、後頭部と額が、熱をもって激しく疼く。痛い、と言おうとしたが、口が動かない。
 鼻だけを残して、顔の下半分が何か粘着テープのようなものでぐるぐる巻きにされているのだと気付くのにしばらくかかった。一体何故こんなことに、と驚いてから、私はようやく、襲われたのだということを思い出した。
 そうだ、私は、自宅の廊下で待ち構えていたあの人……朝夫に言い寄っていた女性主任に消火器で殴られたのだ。
 私は、体を横にして、自分の部屋のリビングに転がっていた。立ち上がろうともがいたが、背中にまわされた両腕と、スカートから出た両脚も、口と同じように頑丈な幅広テープで執拗に拘束されている。これでは、悲鳴を上げることも、走って逃げることもおおよそ不可能だ。
 主任はどこにいるのだろう。
 そう思ったとき、再び私の耳に、夢の中で聞いたあのかちかちいう音が届いた。
 音源のほうに、そっと視線を向ける。
 まず、床に溜まった水、そしてその中央に立つ、ストッキングに包まれた二本の脚が見えた。薄いピンクが、ぐっしょり濡れて濃い灰色になってしまったタイトスカートと同色のスーツ。背中の中ほどまでありそうな黒いロングヘアも、濡れ、もつれて、ひどい有様だ。
 主任は、その髪をすだれのように前方に垂らして俯いていた。右手に握ったものを食い入るように覗き込んでいるのだ。視線を合わせると、それは私の携帯だった。右手の親指が小刻みに動くたびに、かちかちかちと音がしている。それ以外にも何か聞こえると思って耳を澄ませると、それは低く掠れた呟き声だった。
「あら、嫌だわ。嫌らしい。こんなことを。あたしの多田君に。汚らしい。小娘が。たらしこんで。汚い真似を」
 恐らく、携帯の中のメールか写真を見ているのだろう。切れぎれのその言葉は、呪詛というに相応しい響きで、この時点に至って、私はようやく心底から震え上がった。
 しかし、自分の置かれた状況を真に理解できたのは、主任の左手を見たときだった。
 そこに握られているのは、間違いなく、朝夫に振舞う料理を作るために昨晩きっちり砥いでおいた万能包丁だった。
 その刃を走るぎらりという銀色の光は、昨日はあれほど頼もしかったのに、今はあまりにも剣呑で、私は喉のおくからくぐもった悲鳴が漏れることを止めることが出来なかった。
 私の声を聞いた瞬間、主任の首がぐりっと高速で動き、顔がこちらを向いた。
 すだれのようになった髪のあいだからこちらを睨むその血走った眼を見て、私はもう一度悲鳴を上げた。しかしどれほど大きな声を出そうと、口を塞がれていれば子犬の唸り声と大差ないし、そもそも窓の外ではちょうど頭上に来ているらしい雷雲が続けざまにけたたましい轟音を響かせていて、とても隣接する部屋に助けを求めることはできそうもない。
 主任は、重く湿った足音をずしずしと鳴らしながら私の前まで移動し、仁王立ちになった。
 資材倉庫で見たとおり、どちらかと言えば背は低いほうだろう。立って並べば、私のほうが十センチは高いはずだ。しかし今は、圧倒的な質量を秘めた巨人のようにも見えた。かなり横幅がある骨太な体格なので尚更だ。
 主任は、その重そうな足の片方を持ち上げ、横向きに倒れた私の左脇腹にどしんと降ろした。
「この泥棒」
 短い言葉とともに、足に力が込められ、私の頑丈とは言えないあばらがみしみしと軋む。肺の空気が鼻から押し出され、それを取り戻そうと懸命に吸い込むが、電撃のように脇腹を貫く痛みが呼吸を妨げる。
 私の意思とは無関係に、涙が勝手に溢れ、顔を横向きに流れてフローリングに接した頬を浸した。主任は、それを見ると大きな口をきゅうっと吊り上げ、彫刻刀で削ったような一重の細い目に興奮の色を浮かべてさらに体重を乗せてくる。
 数秒後、私の肋骨からびきっという嫌な音がして、同時に限界を越えた苦痛が銀色の閃光となって脳を貫き、私の喉からくぐもった高い悲鳴が長く漏れた。
「ふっ。ふはっ」
 太い笑いをこぼし、主任は足をどけた。痛みにのたうつ私の様子をしばし鑑賞したあと、再び割れた声を発する。
「汚い泥棒娘。こんなガリガリの体で。私の多田君を誘惑して。かわいそうな多田君。だまされて。罠にはまって」
 ぶつぶつと呟きながら、主任は左手の包丁を持ち上げ、いきなり私の背後の壁に突き立てた。
 リビングと寝室を隔てる壁は、コンクリではなく柔らかい石膏ボードなので、肉厚の包丁の刃先は苦も無く二センチほども壁紙に潜り込んだ。そのまま、ぎ、ぎ、と嫌な音をさせて刃が動き、壁を切り裂いていく。
「こんな狭い。犬小屋みたいなとこに。多田君をひっぱりこんで。たらしこんで」
 刃が抜かれ、再度どすっと突き刺さる。もう一度。そしてもう一度。
 その度に、こまかい石膏のかけらがぽろぽろと散って、私はそれが部屋の流した涙のように思えた。
「この部屋で。したのね色んなことを。汚らわしいことを。多田君と」
 何度目かに突き立てた包丁を、そのまま壁に残して左手を離し、主任は右手に持ったままだった私の携帯を両手で握った。
「そうなんでしょ。ここでしたんでしょ。多田君にいやらしいことを。この場所で」
 私は反射的に首を左右に振った。事実、この部屋に朝夫を呼んだことは無いのだ。
 しかし主任は、ぎりりっと目じりと眉を吊り上げると、突然携帯電話を中央のヒンジから左右に捻り切った。そのバキッという音に倍する音量で、獣の咆哮のような声が迸る。
「嘘をつけえええ!!」
 どかっ、と左足がお腹に蹴りこまれ、私は再度息を詰まらせて体をくの字に折った。
 悶絶するほどの苦しみのなかで、私はどこか他人事のように、なんでこんなことをするかなあ、などと考えていた。
 男への執着と会社での地位を天秤にかけるなら、常識的には後者だろう、などと私は数時間前考えたものだ。しかしこの事態はすでにそんなレベルをはるかに越えている。このマンションのエントランスとエレベータ前には防犯カメラがあるのだから、現状ですら、即逮捕拘留、そして執行猶予なしの実刑は確実だ。当然会社はクビ、もし私を殺しでもしたら最低でも無期懲役である。
 だが、そのような合理的判断など、もはや主任の思考からは消し飛んでしまっているようだった。
 もしかしたら、この人は、あの時点――資材倉庫で朝夫にきっぱりと拒否されたあの瞬間が、最後の分水嶺だったのかな、と私は思った。朝夫に『告白』をされてからの半年間、溜めに溜めてきたものが、あの時決壊してしまったのか。いや……ことによると、これまでの約三十年の人生で味わったすべての恨み、怒り、そして絶望の総量が、あの時限界を越えたのだろうか……。
 とすれば、その相手が朝夫でありそして私であったのは、私にとっては巨大な不運だ。
 そう、不運なだけだ。ここでおそらく殺され、短い人生を終えるのは、偶然のめぐり合わせの結果なのだ。
 そう私が思っているということだけは、どうにかして朝夫に伝えておきたい。恐らくは、全てを知ったあと激しく自分を責め、苦しむであろう朝夫のために。私は少しも、これっぽっちも君のせいだなんて思ってはいないと。
 しかし残念ながら、その手段も機会も残されていないようだった。
 ひとしきり私の体を蹴りまわした主任は、がっと音をさせて携帯の残骸を床に叩きつけると、壁から包丁を引き抜いた。
 もう一方の手で私のブラウスの襟首を掴み、恐ろしいほどの膂力で一メートル近くも引っ張り上げる。
 冷たい鋼の側面で、ぴたぴたと私の頬を叩き、狂気に支配された細い目を限界まで見開いて、主任は吼えた。
「正直に言え。やったんだろうここで! この部屋で汚らわしいことを!」
 その瞬間、カーテンの隙間を一際まばゆい閃光が彩り、ほどんど同時に爆発じみた雷鳴が轟き渡った。天井の照明がちかちかと震えたが、主任は視線を微動だにさせなかった。
「燃やしてやる!!」
 雷鳴を上回るほどの絶叫。
「お前も、この汚い部屋も、全部燃やしてやる。ベッドも、床も、汚い場所全部!」
 私は、がくがくと震える背筋に力を込め、もういちど、首を横に振った。
「嘘だあああっ!!」
 再び至近で炸裂した雷鳴にかぶせて、主任が叫ぶ。
「馬鹿に!! 馬鹿にして!! お前みたいな女は!! いつもいつも!! わかるんだ、隠しても!! 頭がいいんだあたしは!!」
 突然身を翻した主任は、何を考えたのか、私の襟首を握って引き摺りながらリビングを横断しはじめた。背中や脛が、テーブルの脚に乱暴にぶつかるが、もう痛みなど感じる余裕はない。
 キッチンをどすどすと通過し、その奥の引き戸をくぐったところは洗面所兼の脱衣所だった。私をどすっと放り出した主任は、包丁をこっちに向けて、にたにた笑いながら囁いた。
「すぐわかるんだよ。すぐ証拠を見つけてやるからな」
 浴室の明かりをつけ、ドアを開けて中に入った主任は、タイルの上に四つん這いになった。洗い場の排水口を覆う蓋を乱暴に外し、その中の、網状になった中蓋に溜まったいくばくかの抜けた髪を摘み上げる。
 それをタイルの上に置くと、更に体を屈め、主任は指先で一本一本選り分けはじめた。あの中から、あるはずのない朝夫の髪を見つけ出すつもりなのだろう。いったい、この部屋に朝夫が来たかどうかということがなぜそれほど重要なのか私には解らなかったが、しかしもうそのような疑問すらも差し挟めぬほどの、鬼気としか言いようの無い気配が濃密に放射されていて、私はただ呆然とその様子を見ることしかできなかった。
 丸くうずくまり、床に鼻をつけるようにして髪を検分する主任の、額からは大量の汗が、そして半開きの口からは次々と涎が糸を引いて垂れ、タイルの上を流れて排水口へと消えていく。それはまるで、彼女の身の裡に蓄積しきれぬ悪意が漏れ滴った液体のようにも思えた。
 ああ――、
 そうか。
 なるほど、当然だ。排水のゆきつくところ、下水の奥の闇に、この世のものならぬ何者かが生まれたとしても。
 人間は夜、風呂に入るときに、垢や埃だけを洗い落とすのではないのだろう。長い一日で溜め込んだ、怒りや悲しみ、恨み……つまり負の感情をも一緒に湯に溶かし、流すのだ。下水とは、つまるところ、人の悪意の捨て場所だ。淀み、凝ったそれらから生まれた黒いものが、排水口の下の暗闇のなかから、私達をじっと見上げているのだ。己を捨てた憎むべき相手が、暗闇のなかで無防備になる瞬間をひたすら待ち望みながら。
 背中を洗濯機にもたれさせ、ほとんど麻痺しきった感情のなかでそのようなことをぼんやり考えていた私に向かって、主任が勝ち誇った顔を上げた。
「ほら!! ほらあった!! 多田君の毛よ!! ほら見たことかぁぁぁ!!」
 左手の指に、私の切れ毛であろう短い毛髪をつまみ、右手の包丁をぎゃりりっとタイルに擦りながら主任が立ち上がった。
 その瞬間だった。
 これまでで最も凄まじい雷鳴が、マンション全体を激しく揺り動かした。
 同時に、すべての明かりが消えた。
 リアルブラック。
 都会では本来ありえない、まったき暗闇が周囲を覆った。停電はかなり広範囲に及んでいるらしく、リビングの窓からも一切の光が入ってこない。雷閃すら、自分の仕出かしたことに驚いたかのように、鳴りを潜めた。鼻の先すら見えぬ、ねっとりと濃い闇に、すべてがどっぷりと沈んだ。
 何か、自分の思考以外のものに衝き動かされ、私は洗濯機を支えに立ち上がった。蹴られたお腹と折れた肋骨が、火花の出るほど痛んだが、泣き叫ぶのはあとでもできる。
 そのまま後ろを向き、逃げるのではなく、浴室のドアを背中で押し、思い切り閉めた。
 一瞬のち、ガラスごしに、獣のような咆哮が轟いた。
「がああああ!! 開けろ!! 開けろおおおお!!」
 がつっ!!
 と包丁が擦りガラスに突き立てられた。
 がつ! がつ! がきん!!
 私の頬のすぐ横で、ドアを破って飛び出した刃先が、幾筋かの髪を引き千切った。
 悲鳴を上げたくなるのを堪え、必死に体を縮め、なおもドアを押さえ続ける。
 このままでは、早晩包丁が私の背中のどこかを捉えるのは必至だった。しかしなぜか、私は逃げようとしなかった。いや、ことここに至っては逃げても無駄なのだが――手足を拘束されている私は、玄関までの半分ほども這い進まないうちに捕まってしまうだろうだろう――そのような理性的判断ではなく、ただある種の衝動だけが私を支配していた。
 がん!
 再び、包丁がガラスを割り、左腕に焼けるような痛みが走った。
 続いて、私の背中のまんなか、心臓のすぐ裏に、がつんという衝撃が来た。
 あと三回、いや二回でガラスは砕け――そして包丁の切っ先が――。
 ばしゃっ。
 突然の水音。
 同時に、攻撃がぴたりと止まった。
 ばしゃん!!
 先ほどよりも大きい、まるで、誰かが頭からバスタブの水に飛び込んだ――かのような音。
 直後、激しく水面を叩く音、壁やバスタブを叩く衝撃音が続いた。
 主任が、何者かに水に引き込まれ、脱出しようと暴れている、とでも言うかのような。
 いや、それが事実であることが、私には本能的に理解できていた。全身から脂汗を流し、脚をがくがくと震わせ、悲鳴を必死に堪えながら、私はただ浴室のドアを押しつづけた。
 がらん。
 包丁がタイルに落ちる音。
 がぼっ。
 大量の空気が吐き出される音。
 ごきん。
 これは――何の音だろう。
 相変わらず、ワニに捕らえられた陸の獣が暴れまわるような激しい水音にまじって、とても、とても嫌な音が立て続けに響いた。
 ごき。ぼきぼき。めき、みし……。
 最後にもういちど、

 ごきん!!

 という、間違いなく何かが破壊される音を残して――。
 浴室は、完全な沈黙に包まれた。
 直後、全ての明かりが再び点灯した。
 嵐の音はいつしか遠ざかり、しんとした静寂のなか、私は目を瞬かせてまばゆい光に耐えた。数秒後、ようやく目が慣れ、ドアを押さえたままそっと後ろを振り返る。
 ガラスは酷い有様だった。全面にびっしりとひび割れが入り、数箇所で三角形の穴が開いている。
 その穴のひとつに目を近づけ、私はそっと中を覗きこんだ。
 洗い場のタイルにも、そして見える範囲ではバスタブの中にも、主任の姿は無かった。
 そんなばかな。あのがっしりとした体がどこかに行ってしまうような抜け道など、風呂場には一つもないはずだ。
 完全に萎えた脚を懸命に動かし、私は後ろ手にドアノブを掴んだ。意を決してそれを回し、ゆっくりと引き開ける。
 恐る恐る振り向くと、タイルの上には、ガラスの破片がびっしりと飛散し、その中央に先端が欠けた包丁が転がっていた。がちがち鳴る奥歯を噛み締め、破片の無い場所を選んで一歩、二歩、中へ踏み込む。
 左を向き、体を倒し。
 バスタブを覗き込む。
「〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
 今度こそ、私は、声にならぬ悲鳴を粘着テープの内側で絶叫させた。何度も。何度も。
 バスタブの底には、水が二割ほど残り――。
 その中をびっしりと、黒い髪が放射状にたゆたっていた。
 髪の中心は、直径三センチほどの排水口。髪はそこから出て、まるで意思ある物であるかのようにゆら、ゆらと揺れている。
 そして、その黒髪の源、排水口の少し奥まった箇所に。
 人間の眼球がひとつ、ぴったりと嵌まっていた。
 浮き出た血管。やけに小さなこげ茶色の光彩。そして針穴のような瞳孔。
 間違いなく、数分前まで私への殺意に満ちていた主任の眼だった。
 同時に、私は、ああこれだ、と思っていた。あの時――倉庫で朝夫と抱き合っているときに、ラックの隙間から私を見ていた眼。
 ごくごく細い排水パイプの中で、主任がいったいどうなっているのかなどと考える余裕は私にはなかった。ただただ、焼き切れそうな意識のなかで、眼球の瞳孔の奥の暗闇を覗き込んでいた。
 やがて、きゅぽん、という音を立てて、眼球が排水口の奥へと引き摺り込まれた。それに続いて、びっしりと揺れていた髪もずるすると飲み込まれていき、わずか数秒で残っていた水ともども消え去った。
 あとにはもう、ステンレスの輝く表面に、ほんのいくつかの水滴が貼り付いているだけだった。黒く長い髪のひとすじすら、そこには残っていなかった。
 私はよろよろと後退り、脱衣所の床にどすんと腰を落とした。
 そのまま何分そうしていただろうか。これからどうすればいいのか、私にはもう考えられなかった。
 朝夫に相談しようという唯一の回答が浮かんだのは、嵐が完全に去り、窓の外を行過ぎる車の音が戻ってきてからだった。私はのろのろと体を動かし、立ち上がると、じりじりとリビングの電話目指して移動を開始した。
 ただひとつ確かなのは――。
 私はまたすぐに引越しをしなければならないということだけだった。

END