2014年12月27日 | WEB NOVEL

セーバー・リセッタ


 波動関数だの、不確定性原理だの、平行宇宙論といったものについての僕の理解は、女性心理に対するそれと同じくらいあやふやなので説明は省略するよ。
 ともかく、それら空想的概念から、ある日ど豪い発見が導き出され、それを元にしてど凄い発明が生み出された。たぶん、政府当局がそいつを発表前に掴んだら、黒い陰謀によって関係者は全員謎の事故死、モノも闇に消えて、一般国民がそれを知ることは永遠になかった――なんてことになったんじゃないかな。それほどおっそろしい、驚天動地の発明だったんだ。
 発明者も、それを秘密裏に抱えつづけていたら命が危ないと思ったんだろうね。先手を打って、ネットとマスコミにばーんと発表してしまった。政府は泡を食って事態をコントロールしようとしたけど、吹き荒れる世論の前には政治家のお題目なんぞたんぽぽの綿毛みたいなもんで、ついにはその発明品を国が大量生産、国民の大部分に配布する、ってことになった。
 そいつの名前は、『事象位置記録遡行機』、でもみんな舌を噛みそうなその正式名は使わずに、機能に即したシンプルな通称で呼んだ。『セーバーリセッタ』、と。

 僕は、行きつけの喫茶店の奥まった席で友人にして同業者の藤谷を待ちながら、手の中の小さな機械をためつすがめつ眺めていた。
 三日前にゆうパックで届いたそれ――セーバーリセッタは、一見したところ携帯電話によく似ている。長辺およそ八センチ短辺五センチの長方形、厚みは二センチ強か。しかし、携帯にありがちな安っぽいプラスチックではなく、ヘアライン加工された削り出しアルミニウムの外装を与えられずしりと持ち重りがする。
 ネジの類は一切見当たらない。鈍い銀色の直方体の裏面には、前述のややこしい正式名称とシリアルナンバーが刻印され、表面には糸のように細い継ぎ目と、その下に指をかける窪みがある。その窪みを親指で引くと、継ぎ目から表面の四分の三ほどが下にスライドし、内部の操作パネルが露わになる。
 パネルも、非常にシンプルだ。一番上に、小さな液晶画面。その下に四角いメインパワーボタン。次に、『記録』(つまりセーブ)、『遡行』(つまりリセット)と刻まれた二つの丸いボタンがあり、さらにその下部に1から9までのナンバーボタン。それで全て。
 メインパワーボタンを押すと、液晶が青白く発光し、待機状態に入る。表示されているのは、西暦年から秒にいたるまでの詳細な日時だ。これがつまり、このセーバーリセッタに記録されている『事象位置』ということになる。
 ついで、使用者は、記録か遡行のどちらかのボタンを押す。すると機械は暗証番号の入力を求めてくる。パッケージに同封されていた八桁の数字をナンバーキーで打ち込む。そしてもう一度、記録あるいは遡行ボタン。
 記録、を押せば、その瞬間の日時が新しく機械に上書き記録される。保持できる上限は一週間までだ。
 そして遡行、を押すと――
 時間が、記録されている日時まで巻き戻る。
 使用者ひとりの時間じゃないぜ。全国、いや全地球、いや……想像するだに恐ろしいことだが、この全宇宙に存在する何もかもが、キュルルッと一瞬で巻き戻るんだ。こいつを驚天動地と言わずして何と言おう。
 ま、当然ながら使用者およびその他の人間の頭の中も巻き戻るので、『遡行』が行われたことを実感することは出来ないんだけどね。どんな理屈でそんな摩訶不思議なことが起きるのかは、いちおう公表されてはいるんだけど、A4のPDFファイルに細かい文字と数式がギッシリ三百枚もあるので、とても読めないし読んでも理解できないという確信がある。
 僕は、銀色の記録ボタンの上で彷徨っていた指を戻し、パワーボタンを押して電源を切ると、スライドカバーを元に戻した。今この時点を『記録』しておく意味はさほど無いと思ったからだ。どうせ、表示されている記録時はほんの十二時間前、ゆうべの深夜二時だ。
 セーバーリセッタをシャツの胸ポケットに戻すのと、テーブルにさっと影が落ちたのはほぼ同時だった。
 顔を上げると、藤谷多加子が相変わらず化粧っ気のない顔にいつもの皮肉げな笑みを浮かべて立っていた。
「さっそくいじってるね」
 言いながら、僕の向かいの椅子にどすんと腰を落とし、がしんと脚を組む。と言っても、穿いているのがよれよれのブルージーンズなので色気に類するものは皆無だ。上もオーバーサイズのフリース、短い癖っ毛に黒ブチ眼鏡。僕は密かに、この女実は素材は悪くなかろうと思っているのだが如何せん本人にそれを磨こうという意欲が欠如しているらしい。もっとも僕も人の事はまったく言えない。CG描きなどという人種には求めてはいけないアビリティなのだ、などと言ったら他の絵描きさんは怒るだろうが。
 藤谷は、メニューを手に取りもせず、水とオシボリを置いたウェイトレスに「コロッケカレー大盛り」と告げた。僕も付き合ってカツカレー大盛りをオーダーする。
 がぶりと水を含み、がりがりと氷を齧る藤谷に、僕は尋ねた。
「フジタニは持ち歩いてないの、アレ?」
「ん〜」
 ひょい、と肩をすくめる。
「出るとき迷ったんだけどね。結局置いてきたわ。盗まれたり壊したりの心配は、どっちにしても一緒だし」
「そりゃそうか。しっかし、『紛失盗難一切補償セズ』ってのはどうなのかねえ」
「仕方ないっしょ。盗まれたフリして複数ゲットして、二箇所以上セーブしようって奴が絶対出てくるし。――で、キミはもう使ったの?」
「あー……うん、まあ、記録はね」
 オシボリを捻りながら、僕が煮え切らない口調で肯定すると、藤谷は不意に眼鏡の奥でにやりと目を細めた。
「当ててあげる。ログナの鍛造でしょ」
「う……」
 見事看破され、僕は照れ隠しに顔をごしごし拭った。
 ログナ、とは、僕と藤谷がここ数年ハマっているネットワークRPG、『ログナレク・オンライン』のことだ。そして鍛造とは、そのゲーム内で所持している武器や防具を、鉱石アイテムを消費して強化する行為のことである。一度鍛造するごとに、アイテム名の後ろに+1ずつ数字が加算され、ある回数からは鍛造失敗のリスクが増大する。例えば、僕のキャラクターが持っている『ダークメイル』なる鎧だと、+4までは安全圏であるが、+5の成功率は七割、+6は五割だ。失敗すると高価なアイテムがまるごと消滅してしまうため、なかなかに冒険的な行為――と言えば聞こえがいいが、つまりはギャンブルである。
 僕は、そのリスクを回避しようと、届いたばかりのセーバーリセッタを使って、鍛造直前の日時をセーブすることにしたのだ。秩序と平和の維持を目的に配布された機械をそのようなことに初使用してしまうことに、少々忸怩としないわけではなかったが、別にセーバーリセッタには使用目的の制限など有りはしない。
 しかし、セコい思考をこうもあっさり見抜かれてしまうと咄嗟に居直ることもできず、僕は子供のように唇をとがらせながら言い訳した。
「いや、たしかにセーブはした。でも、昨夜は神が降りてたっつうか、+8まで一発成功したからさ、結局リセットはしなかったよ」
 すると藤谷はこれ見よがしなため息をつき、古いアニメの台詞を引用して僕を詰った。
「あんたバカァ? リセットしたに決まってるじゃん」
「は?」
「いい? 鍛造に失敗したキミは、さくっとセーバーリセッタの遡行ボタンを押すわけ。すると、時間が鍛造前まで巻き戻る。ボタンを押した記憶も無くなる。そこでまた鍛造して、失敗する。また遡行する。+8だと、通しの成功率は五パーセントくらいでしょ。てことは、二十回は遡行しててもおかしくないよ。そんでついに鍛造が成功して、今のキミに至るわけよ。キミの記憶では一発で成功したことになってるけど、その影には失敗に泣いた二十人のキミがいるってこと」
「…………」
 言われてみれば、それが正論である。僕はなぜか少々ぞっとしながら、しぶしぶ頷いた。
「……そういうことになる、のか。うへ、+10まで欲張らなくてよかったな。成功率一パーセント以下だから、百回以上リセットしちゃうとこだったぜ」
「いっしょいっしょ!!」
 藤谷はほとほと呆れた、といわんばかりの渋面を作って手をひらひら振った。
「そんなことよかさ、キミ、気付いてる? セーバーリセッタの配布が始まって今日で五日目だけど、最近、取引サイトに、+10の過剰鍛造品がやたら多く出品されてるでしょ」
「えっ、そうなの?」
「そうなの。つまり、キミと同じ事考えてる人がいっぱいいるってこと。セーバーリセッタを使えば、いつかは+10の鍛造に成功しちゃうわけだから、これからは過剰鍛造品がサーバーに溢れて、値段とか暴落するだろうねー。もしかしたら、ああいうギャンブル要素はゲームから排除されちゃうかもね」
「う、うーん……。なんかそういわれると、せっかくの+8ダークメイルの有り難味がもそっと減るな……」
 僕が眉をしかめると、藤谷は不意に真剣な顔を作り、身を乗り出してきた。
「ほんとにお気楽な人だねえ、キミは。私が言いたいのは、現実世界でも、ログナと同じことが起きる、ってこと!」
「へ? どういうこと?」
「つまり、この世のあらゆるギャンブル的、ゲーム的なもの……小はパチンコや競馬から、大は商品先物や株式市場まで、勝者と敗者が存在するものはみんな成立しなくなるのよ」
「……損をした人がみんなリセットするから?」
「そ。時間が前に進むには、そのギャンブルに参加した人が、全員満足して、リセットしなくていいや、と思わないといけないから」
「全員満足って……そんな事、有り得ないじゃん」
「そそ。有り得ないよね。でも、ああやってパチンコしてる人達はいるし……」
 藤谷はちらりと喫茶店の入り口のほうに視線を送った。ガラス戸と路地を隔てた向かいには中規模のパチンコ屋があって、チンジャラ音がここまでかすかに漏れ聞こえてくる。
「……そして、私達はこうやって会話してる。つまり、時間は前に進んでいる、ように見える」
 藤谷の言わんとしていることがよくわからず、僕は首をかしげた。
「えーと……? 日本全国で今パチンコしてる人なんて山ほどいるだろ。その人たちは、負けたら当然、パチンコする前まで時間を遡行させるはずだよな。でも、時計の針はああやって、ずーっと前に動いてる」
 僕と藤谷は、壁の古びた丸時計をしばし眺めてから、顔を見合わせた。
「遡行……してるんだと思うのよ。こうしてる間にも」
 やがて藤谷が、ぼそっと言った。
「え?」
「つまり、私が、こうやって……あー、って声を出す間にも、日本中で山ほどのパチンカーがリセットボタンを押して、時間を巻き戻してる。ただ、それを認識することができないだけで。んで、そうやって時間のやり直しをしてるうちに、セーバーリセッタを持ってるパチンカーが全員勝つ、っていう事象が出現する。それでようやく、時間はちょこっと前に進む。きっと今ごろ、景品交換所は長蛇の列だわ。断言するけど、パチンコ屋はそのうち全部潰れるわよ」
「で……でもさ、セーバーリセッタは、税金払ってる成人はみんな希望すれば貰えるんだぜ。つまり大多数が持ってる、ってことだ。んで、その連中が全員勝つ、って……どんな確率だよ?」
「天文学的に低いわね。想像もつかないくらい」
「…………」
「そんで、念押ししとくけど、パチンカーってのはあくまで例だからね。パチンコ以外のギャンブルしてる人、仕事とかで失敗した人、怪我しちゃった人……すべての瞬間に、時間遡行する動機のある人がどれくらい存在するか、考えるだけで恐ろしいわよ。――ログナで無茶な過剰鍛造する人も含めてね」
「悪かったよ。……でもさ、リセットする動機……なんて、何も失敗したからやり直そう、ってだけじゃないと思うぜ。た、例えばさ、ちょっとひねくれちゃった人がいるとして、そいつは、セーバーリセッタを手に入れたら即セーブして、その日の終わりに絶対にリセットボタンを押す、って決めちゃったとする。そんな人、けっこういてもおかしくないだろ。つまり……そいつがリセットしつづける限り、時間は絶対に前に進まない、ってことにならないか?」
「うむ、キミにしてはいい目のつけどころね」
 藤谷は眼鏡を押し上げながら、ニッと笑った。ちょうどその時、注文したコロッケカレーとカツカレーが到来し、スパイシーな芳香が空きっ腹を直撃する。
「あげるからちょうだい」
 目的語を大幅に省いた台詞を口にしながら、藤谷はスプーンを取ると、自分のカレーに二個乗っているコロッケの片方を僕の皿に投下し、かわりに七切れあるカツのうち四切れを奪っていった。やや不均衡な取引だが、やむなく了承する。
 辛党である僕と藤谷は、各テーブルに常備してある『カレーホット』なる激辛調味料(この喫茶店でしか見たことはない)をどばっと皿に振りかけた。スプーンに山盛りにした米とルー、カツを大口を開けて呑みこみ、幸せそうに咀嚼しながら、藤谷はやや不明瞭は口調で言った。
「考えてみれば、これもそうよね」
「ふぇ?」
「今の取引を申し出る前にセーブして、断られたらリセットしようと決めたとするじゃない。こうやってキミが取引を了承するまで、一体何回遡行することになるか知れたもんじゃないわよ」
「あ、あのなあ。僕はそんなに吝嗇じゃないぞ」
「だからー、たとえ話よ。もっと確率の低い話をすれば……キミがいま、そのセーバーリセッタの記録ボタンを押すでしょ。そんで、私に、この後ホテル行こう、と言う」
 ブふぉ、と僕は米粒を吹いた。
「私は当然断る」
「……当然っすか?」
「当然っすよ。そんで、断られた君は時間遡行して、またホテル行こうと言う。で、また断られる」
「……そんなの、永久ループじゃないか」
「恐ろしいことに、そうとも限らないのよ。人間の意思決定なんて、結局脳神経の電気パルスがアレしてるわけでしょ。つまり突き詰めれば、素粒子の不確定な運動の結果でしょ。百個のサイコロを無限回投げれば、いつかは全部ピンゾロになるみたいなもんで、私もいつかは、まあ行ってもいいか、と思うわけよ」
「…………」
「やってみよう、とか思ったらぶつよ」
「お、思わない」
 僕はぶんぶん首を振り、コップを取るとごくりと水を飲んだ。
「で、そこに至るまで、それこそ天文学的な回数の遡行が行われるわけ。さっきの、絶対毎日リセットすると決心しちゃった人の話にしてもそうよ。その人はもう、何〜〜〜〜っ回もリセットボタンを押すわけだけど、ある時、ふと押すのやめよっか、と思う。もしくは、偶然心臓発作が起きて死ぬ。もしくは、家に自衛隊の戦闘機が落ちてきて死ぬ。そんで、ようやく時間が前に進む」
「んな、無茶な……」
「その無茶が起きないと、時間は流れないの。んで、こうやって時間が流れてるってことは、無茶が起きてる、ってことなの」
「…………じゃあ、さ。えーと……」
 僕は、ここ数日――セーバーリセッタを手にしてからずっと感じていた漠たる悪寒の正体に、ようやく近づきつつあるような戦慄を覚えながら、その先を口にした。
「セーバーリセッタが配布されてから今日で五日目なわけだけど……この五日ぶんの時間が流れるあいだに、その、天文学的な回数の遡行が行われてる、と……藤谷はそう言ってるわけ?」
「うむ。そう言ってるわけ」
「ど、どれくらい……?」
「わかんないわよそんなの。延べ時間にすれば、百年ぶん? あるいは一万年? 一億年? もし、この宇宙というか時空を外部から観測してる存在がいるとしたら、今ごろ呆れ死んでるわね。ちょっと時間が流れたと思ったらまた戻るんだから。一週間、ていうリミットがあってよかったわよ。これが百年とかだったら目も当てられないよ」
「…………」
 僕は、不意に途方もない疲労感を覚えて、カレーを掬う手の動きを止めた。藤谷の言うとおりなら、僕はこのコロッケ乗せカツカレーをもうバケツ一杯(あるいはドラム缶? 2トントラック?)ぶんも食べているということになる。食べては時間を遡行し、記憶を失い、また食べる。実に無駄というか空しいというか、徒労と言うより他にない行為ではないか。
 しかし、絶句している僕に、こちらは変わらず美味そうにコロッケを頬張っている藤谷の呆れ声が飛んだ。
「まったく、キミは分かりやすい人だなあ。キャンセルされた時間流のことなんか考えてもしょうがないっしょ。結局人間なんて自分の主観でしか世界を認識できないんだからさ。今私達はハラペコで、ここのカレーは今日もンマイ。それでいいじゃん」
「いや……でもさあ。もしこの機械が発明されなければ、今ごろはもう22世紀……とか30世紀とかなってて、メイドロボはいるわ汎用人型決戦兵器はいるわ……」
「そんで私もキミもとっくに死んで骨のカケラも残ってないわけね」
「う……」
「だからぁ、そのセーバーリセッタって機械の把握のしかたがもう間違ってるのよ。それをタイムマシンか何かだと思うからややこしくなるの」
「へ? じゃあ、これは何なの?」
「う〜ん……。プロバビリティー・スクランブラーとでも言うかなあ……」
「な、なん……? ぷろば……?」
「蓋然性のことよ。ある事象が現実化するかどうかの度合いのこと。例えば、さっきのホテルの話を例に取ると……」
「そ、その例え話はもうやめてくれよ。もし僕がその気になっちゃったらどうするんだよ」
 僕がしかめ面を作ってそう言うと、藤谷はぱちくりと瞬きし、そ、そりゃ困るわね、などとモゴモゴ呟いた。眼鏡の奥で、そばかすの残る頬がわずかに赤くなっている気もしたが、よくよく覗き込む暇もなく、僕の目の前に卓上楊枝入れが突き出された。
「じゃあ、これでいいや」
「よ、ヨウジがどうかしたの?」
「この中に、一本だけ先が赤く塗ってある奴があるから、一発でそれ引き抜いてみ?」
「いや……ムリだろ。これどう見ても百本以上あるし……あ、そうか」
 僕は胸ポケットに視線を移し、頷いた。
「セーバーリセッタを使えばそれができるわけだ」
「そ。本来、キミが最初に当たりを引く確率はとても低いものよね。でも、その機械が蓋然性を引っくり返すの。しかもこの場合のポイントは、キミの主観ではあくまで、最初の一回で当たりを引くってことよ」
「で……でもさ、だからって、僕が当たりを引くために何度も時間を巻き戻すのもまた事実なんだろう?」
「巻き戻す、って言うけどさ」
 藤谷は楊枝入れを置くと、にやっと笑った。
「キミ、分かってる? これからの人生で、キミは一度もそのセーバーリセッタの遡行ボタンを押すことはないんだよ。だって、押したとたんその記憶は消滅しちゃうんだから。押せるのはあくまで記録ボタンだけ」
「う、うーん……そうか……。つまりこれは、持ってるだけのお守りみたいなモンなの……?」
「そうよ、その通り。持ってるだけで、事象の蓋然性、つまり運をわやくちゃにする魔法のアミュレット。これからの世界では、確率や運だのみって言葉の意味は書き換えないといけないでしょうね。起き得ることは、すべて起きる。そういう世界になるんだわ」
「起き得ることは……すべて起きる……」
 僕は藤谷の言葉を繰り返しながら、その意味を考えた。そして考えるほどに、新たな不安感が背筋を這い登ってくるのを意識した。
「じゃ……じゃあさ。テロ組織がこれを手にしたらさ、そいつらが自衛隊の基地から爆弾……いや、もっと言えば、米軍から核ミサイルを盗み出して、世界の主要都市を丸ごと吹っ飛ばす、とかも可能になるんじゃないの?」
「不可能よ。だって、もし核爆発を起こせても、その時間流もまたリセットされちゃうんだから。多くの人が持ってる多くのセーバーリセッタによって、ね」
「でも、テロ組織だぜ? そう簡単に諦めやしないだろう。そいつらもまたリセットしてやりなおすはずだ」
「そして、無限回の遡行が行われる。結果、選択される未来は、何も起きなかったほうよ。テロ組織のほうが明らかに人数は少ないんだから、何らかの超偶発的要因によって、遡行できずに計画が失敗し、セーバーリセッタも失われるという事象が発生して、そのまま固定されるはずだわ」
「むう〜ん……」
 そろそろ藤谷の話は僕の理解能力を超えつつあったが、それでもどうにか咀嚼して飲み込む。
「それじゃあ、この機械によって、相反するふたつの蓋然性の綱引きになったとき、時間の本流として選択されるのは、より多数の人が望むほう……ということなのか」
「だね。だから、競馬で超大穴馬券を中てるとか、自分だけが得をする事象を望んでも無駄……というか、ある意味では危険かもよ。レース中に心臓麻痺その他で頓死するかも。さっきのパチンコ屋の話にしても、あまりにも客が勝つからって店側の人間がセーバーリセッタで抗おうとすれば、同じ目に合うかもしれないわね。――まあ、普通は突然死の前に、意思決定のゆらぎによって『やっぱやめとくか』と思うほうが先でしょうけど。私、さっき、起き得ることはすべて起きる、って言ったけど、そこに付け加えるわ。より多数の人間と事象を争う場合はその限りに非ず、ってね」
「う……じゃあ、実はログナの過剰鍛造に使うのも危険行為だったのか?」
 僕が顔を強張らせながら言うと、藤谷は少し考える素振りをした。
「いやまあ、あれは直接的には損をする人間はいないしね。簡単にキャラが強くなって、長期的に見れば運営会社にはマイナスかもだけど。でもま、利己的な動機で使うのはやめとくに越したことはないわね。……あー、美味しかった。リセットしてもう一回食べてもいいよね、ここのカレーなら」
 コロッケトンカツ乗せ大盛りカレーをぺろりと平らげた藤谷がそんなことを言うのを聞いて、僕は慌てて首を振った。
「おい、やめてくれ。すでに何回喰ってるか知れたもんじゃないんだから。――んーまあ、藤谷の言わんとするところは何となくわかったよ、ここまでは。でもさ……じゃあ、ほぼ拮抗する人数同士の争いになったらどうするんだ? 例えば選挙だ。これから二大政党時代になるとして、負けた党の支持者は当然リセットしてやり直そうとするだろう? それこそ決着がつかないんじゃないか?」
「私達の主観時間は常に前進しつづける……という大前提に立てば、そうね……負けた党の支持者多数に、超偶発的不幸が降りかかる……ということになるのかな。いやでもその場合は、勝った党の支持者も含めさらに多数の人間がリセットを試みる……? あ、やば、なんか怖い考えになっちゃった」
「へ?」
「いや、あまりにも蓋然性の神様を虚仮にするような超極微事象を求めつづけると、すんごいことが起きるかも、と思ってさ。それこそ、巨大隕石が降ってきて日本滅亡、とかさ」
「へ……?」
「だから、起こり得ることはすべて起きる、よ。国民を二分する争いなのにどうやってか全員が結果を受け入れる、という事象と、なんかあって日本が丸ごとぶっ飛ぶ、という事象が出現する蓋然性はけっこういい勝負かもしんない、と思ったの」
「うへ、や、やめてくれよ」
「まあ、選挙とかは、投票から開票まで一週間以上置く、というのが現実的なセンでしょうね」
 僕は不意に、胸ポケットに収まっている小さな機械の重みが少し増したような気がして、ごくりと唾を飲んだ。
「なんか……藤谷はこいつのことをお守りって言ったけど、その前に『悪魔の』って冠が付きそうになってきたな……」
「だから、使い方次第っしょ。私は、セーバーリセッタの存在意義はただひとつだと思うよ」
「な、なに?」
「理不尽な悲劇を無くすこと」
 藤谷はまじめな顔をつくり、僕の目をじっと見てきた。
「交通事故、いろんな過失致死傷、そして犯罪被害。……それが出現したことで、誰もが不幸になる、そんな事象をキャンセルすること。病気だけはどうしようもないけど……。多分、この機械のせいで、全てのギャンブル業界と損保業界、証券市場は立ち行かなくなるでしょう。政府も、公的補償の準備してるみたい。でも、それを差し引いても、私はこの機械と、それを持つ人間の善性を信じるよ。ギャンブルで儲ける人を増やすのと、不幸に悲しむ人を減らすのと、どっちが大事か、考えればすぐわかるよね」
「…………」
 僕は何度も瞬きをしながら、真剣な色を浮かべたままの藤谷の顔を見詰めた。
「な、なによ」
「いや……。藤谷って……いい奴だったんだなあ」
「あ、あのねえ。キミ、いままで私のことをどう思ってたのよ」
「いや、おもしろい奴だってのは知ってたけど。うん、いや、まったく藤谷の言うとおりだな。交通事故で死んじゃった友達の葬式に行ったことあるんだけど、ご両親の悲しみようは見てられなかったもんな……。ああいうことが無くなるのは、すごいいいことだ。うん……わかった。僕、ログナとかにこいつを使うのはもうやめるよ」
 僕にしては珍しく、ある種の感動に似た気持ちを味わいながらそう言うと、今度は藤谷がきょとんとした顔をし、次いでぷひゅっと笑った。
「……な、なんだよ」
「むふふ……うん、キミもいい奴だね。ヒッキーのオタクにしてはね」
「……褒めてるの、それ?」
「褒めてる、超褒めてる。うーん、世の中キミみたいな人ばっかりなら、私も余計な心配しないでいいんだけどねー」
「心配? って何を?」
「セーバーリセッタを使えば、事故や犯罪の被害にあうことは無くなる、ってさっき言ったっしょ」
「言った」
「さて、ここで問題です。じゃあ、犯罪を起こすほう……とくに、快楽のために暴行や殺人をするヤツは、どう考えるでしょーか」
 藤谷は大きな眼鏡を外し、レンズを紙ナプキンで拭いながら、そう言った。僕は突如急転した話題に面食らい、絶句しつつ少し考えた。
「えーと……どうせキャンセルされるなら、犯罪なんてやっても無駄……あ、いや、違うか。逆か? どうせキャンセルできるなら……何をやってもいい……?」
「ぴんぽーん。私前に、キャンセルされる時間流のことなんか考えても仕方ない、って言ったけど、こればっかりは生理的に飲み込めないのよね、なかなか。例え別の事象に必ず上書きされる、って頭ではわかっててもね……。それに、犯人や被害者、もしくは遺族が、百パーセントその事象を消去できる、という保証もないわけだし。そんなことするヤツは、いずれ絶対に、この記憶を無くすのは勿体無い、とか思うようになるんだからさ」

「おもしろい。す、すごいおもしろいね。もっと聞いてたいけどね」

 ――と言ったのは、僕ではなかった。
 僕がこの喫茶店に来る前から、隣のブースに座り、マンガ雑誌を読んでいた小柄な男だった。藤谷とずっと背中合わせだったその男は、いつの間にか僕たちの会話を盗み聞きしていたようだ。
 眉をひそめながら藤谷が振り向くのとほぼ同時に、男は立ち上がった。
 見覚えのある顔だった。僕や藤谷と同じく、この喫茶店の常連だ。ウェイトレスのお姉さんと世間話をしている姿を、何度か見かけたことがある。三十代後半か、脂気の多そうな髪を長く伸ばし、後ろで結わえている。糸のように細い目を覆う黄色がかったレンズの眼鏡と、口のまわりの濃い髭が職業を推し量りにくくしているが、平日の午後に喫茶店でマンガを読んでいるからには、僕たちと同じような自由業なのだろう。暖かい店内なのにもこもこしたジャケットを着たままで、上半身は丸く膨れ上がっている。
 男は藤谷を見下ろすと、やや引き攣ったような笑みの張り付いた口を動かした。
「お、俺、今日ここにくるまで、実はちょっと不安だったんだよね。ホントに無かったことにできるのか、いまいち確信なくてさ。でも、君たちの話聞いてホッとしたよ。問題ないよね、俺も、やられた人も、両方リセットしたいと考えるはずだから。……俺が、これから、何をしてもさ」
 言葉が終わるのを待たずに、藤谷は、すごく、すごく嫌そうな顔をした。嫌悪、幻滅、怒り、虚無感、それらがない交ぜになった――一言でいえば、悲しみのようなものが、目の奥に見えた。
 藤谷は体の向きを変えると、まっすぐ僕の顔を見つめてきた。それに対して、僕が何かを言う、あるいはする暇もなく、男がダウンジャケットの下に右手を差し込んだ。
 つかみ出されたのは、大ぶりの拳銃だった。だが、一目でモデルガンだとわかる。銃身の黒い光沢は安っぽく、黄褐色のグリップも明らかに木ではなくプラスチック樹脂だ。
 男はモデルガンを天井に向けた。その時にはもう、さして広くない店内の藤谷を除く全員が、唖然として男の挙動を凝視していた。
「全員、床に腹ばいになれ!」
 男の声は、甲高く裏返っていた。ぽかんと目と口を開けていたウェイトレスが、氷水のピッチャーを右手に持ったまま、一歩進み出て、口を開いた。
「な、ナガノさん……何を言って」
 乾いた破裂音が、強烈に鼓膜を叩いた。直後じいんとする耳鳴りが襲ってきたが、僕はそれを意識することはなかった。なぜなら、確かに見たからだ。男のモデルガンの先端から、黄色い閃光がわずかに漏れるのを。
 天井の、古めかしい白熱灯がひとつ、水風船のように破裂した。細かい破片がきらきらと宙に舞い、店内がほんの少しだけ暗くなった。
 きゃあっ、と高い悲鳴を上げたのは、入り口に程近いテーブルに座っていた二人組みの女子高校生だった。揃って腰を浮かし、自動ドアめがけて駆け出そうとする。
「動くんじゃない!!」
 男が喚いた。同時にモデルガンが再度車のバックファイヤーのような音を発し、入り口近くのレジスターのボタンがいくつか吹っ飛んだ。ッチチャーン、と呑気にベルを鳴らし、レジの引き出しが開いた。ここで、ようやく僕の鼻に、つんと明らかな火薬の匂いが届いてきた。
 女子高生二人は凍りつき、腰を抜かしたようにぺたりと地面に座り込んだ。
「よし、そのまま腹ばいになるんだ。早くしろ!」
 もう逃げようという意欲は完全に削がれてしまったらしく、女の子たちは顔を蒼白にしながら床に横たわった。男は拳銃の先をぐるりと半回転させ、店内の他の客を順番になぞった。
「お前らもだ! いいな、手をポケットに入れたりするなよ。セーバーリセッタのボタンを押そうとしてるの見たら、そいつから先に撃つからな」
「わ、わかった、わかったから撃つな」
 掠れた声でそう言いながら、サラリーマンらしき男が椅子から床に転がり落ちて、言われもしないのに頭の上で手を組んだ。それに続いて、もう一人いた客と、僕と藤谷も床に腹這いになる。僕は、まだうまく現状を認識できないまま、ウェイトレスさんが床を綺麗に磨いててくれてよかったなあ、などと考えた。
 男の持っている銃は、明らかにモデルガンだが、出てくる弾はどうやら本物のようだった。視線を動かすと、少し離れた場所に、真鍮色に光る薬莢が転がっているのが見えた。いわゆる改造拳銃という奴だろう。
 今まで何度かここで見たときには、ただのマンガ好きなオジサンとしか思っていなかったが、つまり彼は、藤谷が口にした、『リセットできるなら何をやってもいいや』という人種だったのだ。それでも、入手したばかりのセーバーリセッタの機能について一抹の迷いを抱いていたのだが、僕と藤谷の会話がそれを断ち切ってしまったらしかった。
 僕は顔を横に向け、隣に並んで這いつくばっている藤谷の顔を見た。藤谷は、太い眉をぎゅっとしかめ、きつく唇を噛んでいた。脳みそのスペックが僕より遥かに上である彼女が、今何を考えているのか、僕にはまるで推し量れなかった。 相変わらず、意識を現実にうまくチューニングできないでいる僕は、藤谷っていい匂いがするなあ、などと場違いすぎることを少し考えた。
 男は、店内の客全員が床に腹這いになったのを確認すると、いまだ立ち尽くしたままのウェイトレスに、重そうなブーツをごつごつと鳴らしながら歩み寄った。僕とも顔なじみの、いつもにこにこと元気なウェイトレスが、顔を強張らせて鋭く息を飲むのがわかった。
「ナガノさん……なんで、こ、こんなこと……常連さん……なのに」
 か細い声で、切れ切れにそう言う彼女に向かって、ナガノというらしい男は、興奮のあまりか完全に裏返った声で答えた。
「だ、だからいいんじゃないか」
「え……?」
「こうやって、よく知ってる人間を、バーン! ってやるでしょ。でも、り、リセットすればみんな無かったことになって、俺はまたここの常連として、お姉さんと天気の話なんかしたりしてさ。そんでまた、気が向いたら撃つ。またリセットする。す、スゲエよね? それってスゲエよね?」
 もう、ウェイトレスは言葉も出ないようだった。絶句したのは僕も一緒だった。男の言っていることが理解できない。何が彼をあれほど興奮させているのだろうか?
「大丈夫だって。ちょっと、ためしに一回殺してみるだけだから。すぐに、十分前まで巻き戻すから」
「や……やめ……」
 小刻みに首を左右に振るウェイトレスの脇腹に、男は右手の銃をぐいっと押し当てた。
「ヒィッ……」
「おお、スゲー、スゲー。銃突きつけるのってこんな感じかよー。……あーあ、泣くなってば。お姉さん、あったま悪いなあ。これみんな、な、無かったことになっちゃうんだよ? ならさぁ、お姉さんも、撃たれるってどんな感じか楽しもうよー」
 ――この時点で、ようやく、僕の中のアンテナが、カチリと音を立てて目の前の現実を捕捉した。
 感じたのは、ちょっと過去には覚えの無い、煮えたぎるような怒りだった。おおよそノンビリした人間である僕のなかに、これほどの激怒が隠れていたことに少し驚いたほどだった。あまりに強く噛み締めたため、右の奥歯がみしみしと悲鳴を上げた。
 こいつは、藤谷の言葉の何を聞いていたのか? 神ならぬ身の僕らには、現在流れているこの主観時間こそが唯一でありすべてだと、藤谷は言ったじゃないか。例えこれが、キャンセルされる筈の時間流なのだとしても、今、彼女が、恐怖に涙している、ということは厳然たる事実なんだ。
 許せない、と思った。これ以上、あの男がどす汚れた手で蓋然性を弄ぶのをただ眺めていることはできない。
 僕は、隣の藤谷に限界まで顔を近づけ、その耳に可能な限り小さなボリュームで囁きかけた。
「藤谷、ここくる前に、セーブしてある?」
 それだけで、藤谷は僕が何を考えているか察したようだった。ぎゅっと眉を寄せ、かすかに首を振る。だが、僕はもう一度聞いた。
「セーブして、ある?」
 ごくごく短いため息のあとに、藤谷は目で頷いた。
「じゃあ、僕が行ったら、店から逃げて、もしやられたらリセットしてくれ」
 今度はもう返事は待たなかった。僕は、男がこちらに背を向けているのを確かめると、そっとテーブルの上に手を伸ばした。頭は上げないまま、記憶に残る調味料の配置を頼りに、壁際のトレイを探る。すぐに、指先にやや大きめのボトルが触れた。音を立てないよう摘み上げ、テーブルの下まで持ってくる。
 狙い違わず、それは、鮮やかなオレンジの液体をなみなみと満たした『カレーホット』の容器だった。キャップを外し、内蓋も捻り取る。揮発する辛味成分が、強烈に鼻を刺す。
 ボトルの口を右掌で覆い、大きく息を吸い込んで、僕は起き上がりざま床を蹴った。
 こんなことをする人間じゃないんだ、ほんとは、僕は。てことは結局、僕もセーバーリセッタを恃んで現実を薄めているのだろうか――?
 というような思考が、一瞬だけ脳裏を過ぎったが、足音を聞きつけた男が振り向いてからは、もう何も考えることはできなかった。
 僕は体を右に倒しこみざま、握ったボトルの中身を思い切り男の顔にぶちまけた。
 んぎぃ、というような甲高い声を上げ、男は左手で眼鏡ごと目のあたりを覆った。闇雲に、それでもぞっとするほどの正確さで、僕のいる方に向けられた改造モデルガンが、三回目の破裂音を響かせた。
 内臓ぜんぶが、ぐうっと持ち上がるような感覚だけを僕に与えて、発射された銃弾は背後の煉瓦壁に食い込んだ。僕は必死の力を振り絞り、男の右腕に飛び掛ると、その手首を両手で思い切り内側に捻り上げた。
「んぎゃあっ!!」
 今度こそ、男は完全に裏返った悲鳴を撒き、ぶんぶんと右手を振った。振りほどかれて堪るものかと、僕は男の腕に爪を食い込ませ続けた。ゴトリ、という鈍い音を立てて、モデルガンが床に落ちるまで。
 落下した銃を、僕は左足で後方に蹴り飛ばしてから、ようやく手を離した。即座に振り向き、転がった銃に飛びつこうとする。だが、男もそうはさせじと、赤い液体に塗れた顔をごしごし擦りながら空いた手で僕の上着を掴む。
 揉み合いは、しかし、三秒も続かなかった。「そこまで!!」という、鞭のようにびんと響く声が僕と男を叩いた。
 顔を上げると、そこには、モデルガンを両手で構えて立つ藤谷の姿があった。銃口は、僕に組み付いた男の頭にまっすぐ向けられている。
 すぐ逃げろって言ったじゃん! ――と一瞬思ったものの、僕はすぐに藤谷のクソ度胸に感謝した。男はぴたりと動きを止め、喉の奥から、ぐぅぅ、というような潰れた声を漏らした。
「そこまでよ。さあ、その人から離れなさい」
 眼鏡の奥で、切れ上がった形のよい目を爛々と光らせながら、藤谷が言った。男は、ちっ、ちっ、と二回舌打ちをしてから、ようやく僕から手を離し、立ちあがった。
「なんだよー、こんなオチかよ。……まあ、さ、最初の一回だしなー」
 不貞腐れたような声で言いながら、男は傍らのテーブルからお絞りを掴み上げ、顔をゴシゴシと拭いた。
「ちっ、何だよこれ。くせぇし、め、目にしみるし……。次はこんなモンにやられないからな」
「あ……あんたな……」
 僕はやり場の無い怒りを言葉に換え、歯の間から吐き出した。
「自分が、何したのか、ほんとに判ってるのか……?」
「お、お前こそ判ってねえよ! いいか、ここは、仮の世界なんだよ! か、仮の自分、仮の他人、ボタン一発で、き、消えてなくなるんだよ! なら何しようと俺の勝手だろうが!」
「…………」
 この男と意志を疎通させようとするのは無駄な努力だと、僕はようやく理解した。振り向くと、藤谷も、怒りの中に空しさを滲ませて男を睨んでいる。
 一瞬、撃っちゃえ、と言おうかと考えた。
 どうせキャンセルされる時間の中にいるのだ。この男が、そんなに拳銃の弾の味を知りたいなら、まず自分で味わわせてやればいいんだ。
 ――と、思いはしたものの、僕はただため息をつくにとどめた。ここで男を撃てば、結局僕らも同類の人間になってしまうと思ったからだ。
 僕が黙っていると、男は不貞腐れたような笑いを浮かべた。
「あーあ、も、もう、目が痛いからとっととリセットするぜ。どーも、お疲れ様でした、皆さん」
 まだ床に腹這いになったまま、ぽかんとこちらを見ている他の客たちに向かって言い放つ。おもむろに右手をジャケットのポケットに突っ込もうとしたが、そこでまた、藤谷の声が飛んだ。
「ちょっと、動くなって言ってるでしょ!」
「っせえな。ガンはそれだけだよ。リセットするって、い、言ってるだろ。セーバーリセッタのボタン押すだけだよ。早くしねえと、ぽ、ポリが来ちまって、面倒っちくなるだろうが」
 ――その時だった。僕の脳裏に、天啓のように、あるアイデアが出現した。見えない手に背を押されるように、僕は一歩男ににじり寄っていた。
「だめだ。お前は動くな。信用できない」
「なんだよ、も、もう何も持ってねえっつってんじゃん! いいだろもう、と、とっとと終わりにすりゃあ」
「だめだ! ……リセットは、僕がする」
「へ……?」
「お前のセーバーリセッタを、僕が操作する。いいか、ポケットから出すから、動くなよ。藤谷、こいつが動いたら容赦なしで撃ってくれ」
「容赦なんかする気、さらさらないわ」
 背中を向けたまま、藤谷の返事を確認すると、僕は男にもう一歩近づいた。
「ちっ、なんだオメー、刑事気取りかよ」
 男は毒づいたが、身動きする様子は見せない。リセットされるとわかっていても、本人は銃弾を味わう気はさらさら無いようだ。僕は、慎重に右手を男のジャケットの前ポケットに差し込むと、指先に触れた冷たく硬いものを引っ張り出した。
 セーバーリセッタは、当然のように、僕のものと外見はまったく同じだった。わずかに、背面に刻まれたシリアルナンバーだけが異なる。
 表のパネルをスライドさせ、電源を入れると、もうひとつボタンを押し、僕は再度男を見た。
「暗証番号を言え」
「…………」
「リセットすれば、番号を聞いた記憶も消去されることぐらい、わかるだろう。早く言うんだ!」
「……八三三五、一八ニ九」
「よし……」
 言われたとおりの番号をナンバーキーで打ち込むと、液晶に認証成功の表示が出た。
 僕は、セーバーリセッタの操作パネルを、男の眼前に突きつけた。そして、最後のボタンをゆっくり押した。
 『記録』ボタンのほうを。
「ヒャ!?」
 男はしゃっくりのような声を出し、細い目を限界まで見開いた。
 その視線の先では、液晶に表示されているセーブポイントが、現在の時刻に上書きされているはずだ。俺は、じゃきんと音をさせてゆっくりとスライドカバーを戻し、男にセーバーリセッタを渡した。
 男は、手の中の小さな機械を、まるで今初めて見るモノででもあるかのごとく、食い入るように見つめた。その濃い髭に囲まれた口が丸くなり、もう一度奇妙な声が漏れた。
「ヒャアアアア!?」

 すぐ近くの交番から駆けつけた警官二名に、僕らは男と改造モデルガンを引き渡した。
 男は、警官にまで盛んに「これはウソの現実なんだ」と繰り返していたが、無論そんな言い訳が通るはずもない。その場で逮捕、連行され、僕と藤谷、喫茶店のウェイトレスさんも二台目のパトカーで最寄の警察署に連れて行かれ、たっぷりと事情を聞かれた。
 その時、刑事が言っていたのだが、この五日間、とくに今回のような事件が増えているという報告は無い、ということだった。事件を起こしてやろう、と考える連中が増えていないわけはないので、それはつまり、起きた事件のほぼ全部がキャンセルされている、ということなのだろう。
 なら、この時間流はどうなんだ? と、僕は調書作成のあいだずっと考えていた。
 男はもう事件をリセットすることはできなくなった。だが、遡行する動機のある人間なら他にもたくさんいる。店内の調度やレジを壊されたマスター(注文が途切れたので店の裏でタバコを吸っていたらしい)、非常な恐怖を味わわされたウェイトレスや他の客三人、この僕にしたって、この先あんな人物の記憶を抱えていくのは少々ウンザリだなあ、という思いがある。藤谷は――彼女だけは何を考えているか、さっぱり想像できないが。
 太陽が西の空に消えかける頃、ようやく僕たちは解放された。ぺこりぺこりと何度も頭を下げるウェイトレスさんと手を振って別れ、僕と藤谷は徒歩で駅を目指した。
 聞きたいことや話したいことは山ほどあったのだが、何から切り出せばいいのかわからず、僕はずっと黙っていた。藤谷も同様に沈黙を守ったまま、相変わらずどこか怒ったような、悲しいような表情のかけらを右眉のあたりに貼り付けて歩きつづけている。
 あと五分もすれば駅前に着く、という時になって、僕はようやくぼそりと藤谷に尋ねた。
「なあ……これも、キャンセルされる時間流なのかな?」
「違うと思う」
 即答だった。僕はやや唖然とし、足を止めて、左横の藤谷に向き直った。
「なんで……? マスターとか、さっきのウェイトレスさんとかは、遡行する動機が充分にあるだろ?」
「多分、こう考えたんじゃないかな。もし、事件をリセットして、無かったことにしちゃえば、これからもあのナガノって男が店の常連であり続ける。そんなの冗談じゃない……ってさ。他のお客さんたちも、怪我はしなかったんだし、それよりも、あそこで事象をセーブしちゃったキミの行動に、してやったり、と思ったんじゃないのかな?」
 そこで、藤谷はようやくいつもの皮肉っぽい笑みを浮かべ、くくっ、と喉を鳴らした。
「ほんと、あれはケッサクだったね。すごいこと考えるねキミも」
「いや……深く考えてやったわけじゃないんだけどね……。――そんじゃあ、藤谷はどうなの? リセットしよう、とは思わないの?」
「ん〜。――えっとね、あのクソ長い論文、苦労して読んだんだけどさ」
「えっ、あれ読んだの?」
「丸二日くらいかかっちゃったわよ。締め切り前なのに。そんで、まあ何となく理解したところだとね、キャンセルされた時間流、っていうのは、どこか別の次元にそのまま残るとかじゃなくて、後からくる本流に上書きされて消えちゃうのね。事象として、最初から存在しなかったことになる。結果、我々は、全ての瞬間において、仮の時間流を認識することができない」
「は……?」
「なんか、そんなバカな、って話だよね。でもそういうことらしい。今、こうして私達が感じている世界、時間は、私達が感じているゆえに真の時間流なの」
 藤谷は、洋画のような、しかし妙に様になった仕草で、さっと両手を広げた。
「――つまり、いずれキャンセルされる時間の中に居る、って状況は有り得ない。だから、私、あの事件が起きたとき、これは誰も傷つかずに無事に収束する、って確信してた。キミが飛び出していった時も、絶対大丈夫、あの男に殺されたりしない、って分かってた。分かってたけど――」
 再度、きゅっと怒ったように眉を寄せて、藤谷は伸ばした右手で、僕の左手をぐいっと握った。
「怖かった。すごく怖かった。あんな不安……心細さ、何年ぶりかわかんないよ。二度と、私の見てる前で……見てないとこでも、あんなことしないで」
 その声が、頼りなく震えているのに気付いて、僕はハッと息を飲んだ。僕よりずっと頭がよくて、行動力があって、絵も巧くて、カッコいい藤谷が、赤くなった目の縁に涙を滲ませているのを見て、胸の奥にがつんと鉄の杭を打ち込まれたような気分がした。
「藤谷……。……ゴメン。もうしない」
 僕は反射的に謝ってから、そっと、藤谷の小さな手を握り返した。
「もっかい聞くけど……じゃあ、これは、キャンセルされる時間じゃないんだよね?」
「そう言ってるじゃない」
「そうか。じゃあ……その、ええと……」
 僕は何度か、出そうになっては引っ込む言葉を喉のあたりでひくひくさせてから、ようやくそれを音声に換えた。
「……こ、これから、ホテル行こう僕と」
「は?」
 藤谷は目と口をぽかんと丸くし、かくんと首を右に傾け、たっぷり三秒ほど沈黙していたが、やがてふうう〜、と非常に長いため息をついた。
「……まあ、どうせキャンセルされる時間流なら誘ってみよう、とか考えなかった所は評価するけどね。でもダメ。行かない」
「……ダメっすか」
「それに、私がここでダメって言えたってことは、キミがこの結果を受け入れ、即遡行してやり直そうとしなかった、ってことでもあるわけだ。そこもまあ評価しよう。でもやっぱダメ」
「……そんな何度も言わんでも」
 何故か、まだ僕の手を握ったまま、藤谷はくっくっと愉快そうに笑った。
「情けない顔すんなよ、男の子でしょ。――まあ、キミのそういうとこ、好きだけどね、智巳クン。ホテルはやだけど、私んチならいいよ」
「へ?」
 今度は僕ががくんと顎を落とす番だった。
 うわ、何かちゃんとしたことを言わないと、という思考だけが脳裏を駆け巡り、今度もまた無様に口をもごもごさせた挙句、出てきた言葉は以下のようなものだった。
「ええと……これ、何回目の遡行かなあ?」
「バーカ!」
 藤谷は握ったままの右手で僕の脇腹をがつんとどやすと、手を解き、軽やかな足取りで歩道を歩き始めた。いまだ動けないままの僕に、少し離れた場所からくるっと振り向くと、にいっと笑いながら短い一言を投げてきた。
「最初の一回目に決まってるじゃん!」
 ――と。

END